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「雑誌SK」アーカイブ|カルレス・プジョル 鋼の闘志 - サッカーキング

[サッカーキング No.005(2019年8月号)掲載]

リオネル・メッシ、シャビ、アンドレス・イニエスタが華麗なプレーを見せるその陰で、決まって汚れ役を引き受けていたのは、鋼の闘志を持つキャプテンだった。 多くの称賛を集めたDFカルレス・プジョルが、自身のキャリアを振り返る。

文=アンドリュー・マレー
翻訳=加藤富美
写真=ゲッティ イメージズ 

 カーリーヘアが土ぼこりにまみれる。目に小石が入ったようだ。拳でピッチをたたく彼の鼻からは血が流れ、頬の擦り傷にも血がにじむ。立ち上がった彼は砂利を払うと、フットテニスの仲間に向けて手を振った。「ボールを出せよ!」。ピレネー山脈の麓にあるカタルーニャ地方の小さな街ラ・ポブラ・デ・セグールに、土曜の朝の静寂を破る大声が響き渡った。「さあ、続けようぜ!」

 その日は4人の少年がコーチを務めるジョルディ・マウリから指導を受けていた。その中に14歳のカルレス・プジョルがいた。“ボール蹴り”ではなく、正式な競技としてフットボールを始めて日の浅い彼は、勇猛果敢に顔から飛び込み相手のゴールを防いだ。

 マウリは当時をこう振り返る。「あの年頃の子供なら、激しいプレーのあとは泣き出すか練習を休むのが普通だ。でも、彼は『点を取られるくらいなら鼻の半分を失っても構わない』という勢いだった。当時からプロになれる資質を感じていたよ」

 少年の成長は、そんな恩師の期待を超えた。子供の頃からバルセロナを応援し続けてきた彼は、憧れのクラブへの入団を果たし、594もの試合に出場した。バルセロナとスペイン代表で獲得したメジャータイトルは21を数える。リーガ6回、チャンピオンズリーグ3回、そしてワールドカップ制覇を含む輝かしい記録だ。少年時代から備える彼の気質と闘志に満ちた姿勢を、バルセロナのファンは心から愛した。

 プジョルはナイジェリア南端にあるウヨという街でインタビューに答えてくれた。近年急激な発展を遂げているこの都市で、彼はチャンピオンズリーグ・トロフィーツアーの開催を企画している。謙虚な少年は歴史上最も多くの称賛を集めたDFとなっただけではなく、今や21世紀のフットボールの力強さを象徴するアンバサダーとなった。

働くことの大切さを小さい頃にたたき込まれた

 ラ・ポブラ・デ・セグールは、一度住むと離れがたい街だ。バルセロナの北西200キロに位置するこの地は、「心のふるさと」と言えるような魅力に満ちている。3000人強の人々が暮らすこの街の中心部を抜けると、いまだに羊飼いの姿を目にすることができる。労働人口のほとんどが水力発電所か夏の観光業で生計を立てているという。

 閉鎖的な環境はしばしば日常生活を不自由なものにするが、住民同士のつながりは時として内陸特有の強烈なキャラクターを生んできた。プジョルのキャリアを振り返るとき、彼の生い立ちを無視することはできない。父親のジョゼップは2006年11月に作業中の事故で亡くなるまで牧場経営一筋を貫いた。現在その牧場はプジョルの兄プトキシが引き継いでいる。母親のローサは家長として家の秩序を守っているという。

「カタルーニャの内陸の人間が働き者なのは、昔も今も変わらないよ」とプジョルは話す。何ごとにも決してひるまない彼のプレースタイルは、そのDNAがもたらしたものだ。

「いつも一所懸命に働く人たちの中で育った。特に両親にはいろいろなことを教えられた。小さい頃から働くことの大切さをたたき込まれた」

 彼の幼なじみによると、他の多くの少年と同じように、プジョルもまた好きなチームや選手のステッカー収集に夢中だったという。母校サグラダ・ファミリアの教師は、数学が得意で利口な少年のことをよく覚えていた。「でも、勉強よりフットボールが好きだったことは間違いないね。作文の話題にもしょっちゅうフットボールが登場していた」

 プジョルは学校が終わると広場でのボール蹴りに勤しんだ。そしてバルセロナファンクラブのラ・ポブラ支部(現在はプジョルの名前がつけられている)を訪れるのが日課だった。そこでは「小さなカルレス坊や」を意味する「リトス」というニックネームで呼ばれていたという。

 ストリートで技を磨いたプジョル少年は、地元で圧倒的な戦績を誇る学校のチームに加入し、頭角を現した。当時クラブの監督を務めていたペップ・オルテガは、2002年に行われたインタビューで「彼一人で2、3人分の働きをしていた」と話している。しかし、プジョルの才能が本当の意味で開花するには、1992年まで待たなければならなかった。その年、ラ・ポブラのアマチュア成人チームがマウリ監督のもとで昇格を重ね、上位リーグ所属の条件としてユースの立ち上げが必須となったのだ。

 年上の選手たちとしのぎを削っていた14歳のプジョルは、ブルドーザーのように仕掛ける右ウイングとしてDFを震え上がらせていた。「彼はGKとしても優秀だったよ!」と話すのは、シニアチームでGKを務めたアルフォンソ・ガレッタだ。

「僕の言うことをよく聞いてくれてね。親しみやすくて、母親とよく似ていた。天使の心を持った闘牛士のようだった。そういえば、地元のライバルのトレンプと対戦したとき、彼は試合の前半はGKとして、後半はFWとしてプレーしてハットトリックを決めたんだよ」

 当時の指導者が作成したレポートには、「15歳の時点でプロとして通用する可能性があったのは、プジョルの他にいなかった」と書かれている。「長身で対人に強い。空中戦では高い打点で相手を制することができる」と要約されていた。「攻撃でも守備でも、常にチームをサポートする。スキルと器用さでプレーを落ち着かせることもできる。常に改善を求める気持ちも素晴らしい」

 フットテニスで頭から飛び込む彼を見たファーストチームの監督が、プジョルの能力を見いだすのに時間はかからなかった。16歳の彼はシニアチームの練習に招かれ、大人が戦うリーグで血を流すことになる。

 監督のマウリは、プジョルと兄のプトキシ、そして親友のシャビ・ペレスを毎朝7時半からの練習にも招いた。プジョルは腰に重いローラーを撒いてスプリントを繰り返し、マウリが飼っていたシェパードのゼウスと一緒に森を走ったり、両肩に10キロの砂の重りをつけて腹筋運動をしたりしたという。

 2002年、友人ペレスは『エル・パイス』紙の取材で「私があの練習に参加したのは1週間だけだった」と話している。しかし彼はプジョルの親友であり続け、2016年に自動車事故で不慮の死を遂げるまでビジネスパートナーも務めていた。

「早朝の練習は寒かったよ。『カルレス、君だけ行けば?』と言ったこともある。彼はいつも……最初からずっと、僕の上をいくプレーヤーだった。まるで獣のように、見たこともないようなプレーをするんだ」

早熟な16歳の少年の噂は予想を超えて広まった

 マウリ監督はシンプルな戦略を胸に抱いていた。それは、94-95シーズンが終わるまでの半年間でプジョルを集中的に指導し、コネクションのあるサラゴサのトライアルを受けさせようというものだった。しかし、早熟な16歳の少年の噂は指揮官の予想を超えて広まった。

 当時バルセロナで働いていたラ・ポブラ出身の弁護士ラモン・ソストレスはこう話す。「友人から何度も言われたんだ。『週末に帰ってこい! トップチームですごいプレーをしている子がいるぞ』ってね」。プジョルの姿を見たソストレスは目を疑った。そして、地元の宝とも言えるこの少年をサポートすることを決意する。バルセロナの会長、ホセ・ルイス・ヌニェスと知り合いだった彼は、バルセロナCの親善試合でカルレスと兄プトキシがトライアルを受けられるよう話をつけた。1995年のことだ。

 兄プトキシはラ・マシアの年齢制限(18歳)を超えていたため外されたが、カルレスは選考に残った。アカデミーの責任者ホアン・マルティネス・ビラセカはソストレスにこう告げたという。「さあ、どうしよう。カルレスを自宅に帰して我々のほうで今後の状況をチェックすることもできるが、バルセロナに親戚がいるならこのまま残ってもらってもう2、3日見たいところだ」

 このときに行われたアカデミーのテストマッチで、プジョルは将来チームメートとなるシャビと対戦している。プジョルは2009年にスペインのメディアによるインタビューに答え、シャビの印象についてこう話した。「誰もシャビからボールを奪うことはできなかったよ。あんな選手がいるんだから、僕が採用されるはずはないと思った」

 結局、ソストレスがバルセロナにある自宅の一室を提供し、プジョルはそこに3週間滞在した。そして、毎日17時半から始まる練習に参加し、決まってこう言葉を掛けられた。「明日も17時半に集合だ」

 そしてある日、ソストレスの電話が鳴った。相手はビラセカだった。「プジョルに合格だと伝えてくれ」「いや、君から直接伝えてやってほしい」。ソストレスはそう言って電話を切った。

 3人はバルセロナCの練習場で落ち合い、ビラセカはプジョルに朗報を伝えた。そして散髪も命じた。プジョルはそれに同意した――その指示を無視しても誰も気づかないことを願いながら。ラ・ポブラでは深夜までお祝いが続いたという。

 それから1カ月が過ぎた1995年6月22日、プジョルはバルセロナとの契約にサインする。彼を精神的に支えたソストレスはプジョルが引退するまで彼の代理人を務めた。

内向的なイニエスタにマットレスを送った

 これでプジョルの戦いが終わったわけではなかった。常に成長を志す姿勢と闘争心に疑いを抱く者はいなかったが、バルセロナでやっていけるほどの才能の持ち主だと信じる者は少なかった――特にストライカーとしては。彼は粗削りで、力任せで、新しいテクニックを身につけるための歩みは遅々としたものだった。

 彼の真価は闘争心あふれるプレーにあった。そしてそれは、彼の“持ち場”を徐々に後ろに下げさせることになる。まずは守備的中盤にポジションを変え、最終的には彼の身体能力を最も生かせるセンターバックへと主戦場が移っていった。

 しかし、4年にわたってティキ・タカの速習コースを受けたプジョルのバルセロナでのキャリアは、始まる前に終わる兆しを見せていた。1999年夏、バルセロナは21歳のプジョルの獲得を希望するマラガからのオファーを受け入れる。移籍金は1億5000万ペセタ(当時のレートで約1億2400万円)。当時のプジョルはバルセロナBでレギュラーを務めていたものの、トップチームでのデビューは果たせていなかった。

 その頃のクラブで、彼の味方はビラセカだけだった。マラガからのオファーの話を聞いた彼は、トップチームで指揮を執るルイ・ファン・ハールのオフィスを訪ねた。「あの子の戦いぶりを見ましたか?」。彼はクラブにリーガ連覇をもたらしたばかりの知将に訴えたという。ファン・ハールは若手の起用に積極的な指導者でもあった。「世界を制覇する気概を持った子です。チャンスを与えてもらえませんか」

 その主張に耳を傾けたファン・ハールはバルセロナBの練習を訪れ、プジョルの闘志に満ちたプレーを確認した。トップチームへの昇格は直ちに実現した。

プジョル

21歳でトップチームデビューを果たした [写真]=Getty Images

「最初の練習でファン・ハールに呼ばれてね」とプジョルは笑う。その声には指揮官に対する愛情があふれている。「『何だ、髪を切る金もないのか?』と言われたよ。僕は『髪が力の源なんです』と答えた。すると、じゃあ切らないほうがいい、と言ってくれたんだ。僕に関する都市伝説はいろいろあるけど、一番不思議なのはファン・ハールに散髪しろと言われた、というデマだよ!」

 ファン・ハールはプジョルの髪には共感しなかったかもしれないが、彼のファイティング・スピリットには感銘を受けた。バジャドリード戦で負傷したシモンに代えて早々に出場のチャンスを与えたのだ。

「ゲームの内容はさておき、自分が抱いた気持ちはよく覚えている」。プジョルは試合をそう振り返る。「よちよち歩きの頃から抱いていた夢が実現しようとしていた。監督に呼ばれて、飛び上がるほどうれしかったね。試合については2-0で勝ったことしか覚えていない。でも、その後の僕のフットボール人生の第一歩となったことは確かだ」

 それから12カ月後、中心選手としてチームに定着したプジョルは、カタルーニャの英雄となる道を着実に歩み始めていた。そしてその頃、バルセロナはルイス・フィーゴのレアル・マドリード移籍という辛酸をなめていた。彼の移籍後初のカンプ・ノウでの試合では、「くたばれフィーゴ」という横断幕が掲げられたほどだ。そんなファンの気持ちをピッチで体現したのがプジョルだ。マンマークを命じられた彼は“民衆の敵”フィーゴを追い回し、ドリブルを止め、行く手を遮り、時に両足のタックルで動きを完全に封じた。

 後半に入ると、スタジアムには「プジョル、やっちまえ!」というファンの叫び声が鳴り響いた。結果は2-2のドローに終わったが、興奮冷めやらなかったのは地元のメディアも同じだった。翌朝、日刊紙『エル・ムンド』は「プジョルは影のようにフィーゴをぴたりとマークした」と報じた。

「1秒たりともフィーゴから離れず、ほとんどボールを触らせなかった。フィーゴの動きをほぼすべて予測していた。プジョルがフィーゴからボールを奪ったとき、会場はまるでゴールが決まったかのような歓声に包まれた」

プジョル

レアル・マドリードへ移籍したフィーゴとマッチアップ [写真]=Getty Images

 しかし、状況は順風満帆とは言えなかった。バルセロナは監督の力不足や選手獲得の不手際もあり、1999年から2003年にかけて5シーズンもトロフィーを手にできなかった。

 状況を変えたのは、フランク・ライカールトだ。彼は04-05シーズンにプジョルをキャプテンに任命すると、勝ち点4差でリーガを制した。翌シーズンには14年ぶりとなるCL制覇も果たしている。

「ジョアン・ラポルタが会長に就任し、監督もライカールトに代わり、ロナウジーニョ、デコ、そしてサミュエル・エトーという強力な新戦力がラ・マシア出身の選手と融合したんだ」とプジョルは言う。「リーガで優勝した次のシーズンに、1992年以来となる、そしてクラブにとって2度目のCL制覇を実現できた。逆転でアーセナルを破り、キャプテンとしてトロフィーを掲げた瞬間は最高にうれしかった」

 プジョルはピッチの外でも主将としての役目を果たした。ラ・マシアからの“卒業生”の一人ひとりをトップチームに温かく迎えられるよう気を配ったのだ。ドレッシングルームで座る場所はここがいいね、トレーニング用品はここにあるよ、と細かなアドバイスをするだけではなく、コーチの一人ひとりに紹介する役目も引き受けた。それは、自身がトップチームに入ってしばらくの間感じていたという孤独感と無関係ではないだろう。

 1996年に内向的なアンドレス・イニエスタが昇格してくると、寮を出て一人暮らしをする彼のためにマットレスを送った。イニエスタのベッドは古く、スプリングが壊れていたからだ。その後プジョルとイニエスタは親しい関係となる。

「アビダルの精神力は本当に素晴らしかった」

プジョル

[写真]=Getty Images

 その後バルセロナは2シーズン連続でリーガとCLの制覇を逃し、プジョルはその状況に心を痛めた。しかし、08-09シーズンにジョゼップ・グアルディオラ監督を迎えると、クラブは創設以来最高の黄金期と言える時代を迎える。

「ペップは1980年代にヨハン・クライフが作ったモデルを再現しようとしていた。ハイプレスも加えてね。選手が一人増えたような戦い方だったよ」とプジョルは言う。

「鉄壁の戦術だ。ボールを失ったら、瞬時にプレッシャーをかける。多くのタイトルを獲得できたのはそれが理由だ。ペップが他の監督と違うのは、すべての試合でインテンシティを保ち、細かい対応方法を練り上げていることだ。最下位のチームと戦うときでも、CLの決勝でも、それは変わりなかった。ミーティングの最後で彼が口にする言葉はいつも同じだった。指示を出したあと、自分に対する信頼を求めていた」

 指揮官もまた、プジョルが備える勝者のメンタリティに敬意を表し、称賛の言葉を惜しまなかった。

「彼がバルセロナの歴史で最も素晴らしい選手の一人であることに疑いの余地はない。彼は行動でチームを引っ張る。一般的に“才能”の話をするときは攻撃の選手を対象とすることが多いが、彼はDFにもそれが存在することを教えてくれた。守備を楽しむことは難しいかもしれない。だが、どうすればそれが可能になるかは彼のプレーを見れば明らかだ。もちろん、楽しむためには能力とクオリティが必要だけどね」

 控えめなプジョルがグアルディオラの意見に同意することはなかったが、自分は絶滅危惧種かもしれないと話す。

「最近のDFは守ることが好きじゃないみたいだね。誰もが前に出て攻撃の起点になったり、得点したりすることが好きみたいだ。でも僕はディフェンスの方法を考えるのが楽しくて仕方がなかった。だって、相手の得点を阻止するって、すごくおもしろいじゃないか」

 グアルディオラ監督のもとで、バルセロナは実に14のメジャータイトルを獲得した。それにはリーガ3回、CL2回の優勝が含まれ、2009年には年間で6冠獲得という前例を見ない記録を達成している。

プジョル

[写真]=Getty Images

「3冠が懸かった試合は緊張したね」とプジョルが振り返るのは、ローマで行われたマンチェスター・ユナイテッドとのCL決勝だ。

「相手の出足は素晴らしく、10分が経過する頃には完全にペースをつかまれていた。ケガ人や出場停止選手が多くて、僕は右サイドバックに回るしかなかった。数年やったことのなかったポジションだ。ヤヤ・トゥーレ、ジェラール・ピケ、シウヴィーニョ、そして僕が形成するディフェンスラインは、最初は空気のような存在になっていたよ。でも、落ち着くにつれて次第に試合を支配できるようになった。そしてチャンスを確実に決め、2-0で勝利を収めることができた。リオネル・メッシが頭で決めたのもいい思い出だね」

 その2年後、バルセロナは頂点を目指す戦いで同じ相手と相対する。メッシ、シャビ、イニエスタが奏でるポゼッション・フットボールを掲げるチームは、ユナイテッドを完膚なきまでにたたきのめした。

 ジャーナリストのギジェム・バラゲが記した著作によると、残り10分で1-3となった時点で、ウェイン・ルーニーはシャビに歩み寄り、こうつぶやいたという。「もう十分だ。君たちの勝ちだ。もうボールを回す必要はない」

 ヒザのケガで6カ月戦列を離れていたプジョルは、レアル・マドリードとの準決勝2試合でピッチに立った。ヒザの痛みが続くなか、彼は懸命に戦い、チームの勝利を支えた。

「開始の笛からすぐにゲームを支配することができた。バルセロナの歴史でも最高のパフォーマンスに数えられると思う。当時のチームが史上最高かって? 仲間とそう話していたことはあるよ」

 ウェンブリーで行われた決勝戦で、プジョルがピッチに立ったのはわずか2分だった。グアルディオラ監督は試合終了の笛が吹かれるその瞬間にプジョルがピッチにいることにこだわったという。2011年の彼の戦いぶりを見ると、指揮官がそう考えたのも無理はない。

 この年の3月、左サイドバックを務めていたエリック・アビダルの肝臓に腫瘍が発見され、肝移植が施された。プジョルは当時をこう振り返る。

「彼が常にポジティブな姿勢だったことは忘れられない。その精神力は素晴らしかった。数カ月も経たないうちに回復しただけでなく、練習に復帰することができたんだから。僕たちだけじゃなくて、社会全体を励ましたという意味でも素晴らしかったと思う。身をもってガンに苦しむ人たちを励ましたんだ」

 準決勝の出場を終えたプジョルは、ポジションを譲る決意をする。決勝戦はアビダルに任せられるという期待を込めた決心だった。

「アビダルには本当に助けられた」

 プジョルは感極まった様子で、チームメートの病について語った。「僕のケガなんて、彼の病気と比べたら本当に些細なことだ。彼の移植手術は成功し、チームメートの全員がそれを祝福し、彼の精神力に感動した。僕たちの代表としてトロフィーを掲げる存在は彼しかいなかった。だから、『来いよ、トロフィーは君のものだ』と言ったんだ」

 表彰台に立つ選手を見守る指揮官も、彼が仕組んだ“サプライズ”を知らなかったという。そしてアビダル自身も「本当に驚いたよ」と、2016年に行われたインタビューで答えている。「プジョルには今でも本当に感謝している」

ケガのことを伏せながらスペインをW杯決勝に導く

プジョル

2010年にワールドカップを制した [写真]=Getty Images

 プジョルはカタルーニャ地方で生まれ育ったが、スペイン代表として戦うことを誇りに思っていた。そして各年代の代表を経験した闘志あふれるプレーは、すべての監督を魅了した。チームのまとめ役はメジャータイトルの獲得に貢献し続けただけではなく、イケル・カシージャスやシャビとともに、バルセロナ所属選手とレアル・マドリード所属選手の融合にも深く関わった。

「代表を退いたあと、自身の後継者として期待した選手は誰か?」という質問に対し、彼が間髪入れずに答えた名前は示唆に富んでいた。「セルヒオ・ラモスだ」

 タイトルを逃し続けたスペイン代表に“鉄拳”を下したのは、2004年に指揮官に就任したルイス・アラゴネスだった。彼に率いられ、スペインはユーロ2008で44年ぶりに国際大会を制覇する。

 ティエリ・アンリに対する差別発言は歴史から消えることはないが、ユーロでの戴冠以降にスペインが掲げた数々のトロフィーに、アラゴネスの熱血指導が大きな役割を果たしたことは間違いない。

「僕たちはある程度の自信を持っていたが、監督はそれ以上に僕たちのことを信じてくれた。それはスペイン国民やメディアの期待をも上回るものだった」とプジョルは話す。

「2年間、彼は『チャンピオンになるぞ!』と言い続けた。就任後最初の言葉は、『このチームはタイトルを取るチームだ。それができなければ、私は世界で最もクソな監督だ』というものだった。その後も度々同じことを口にしていたよ。繰り返し聞いている僕たちも、いつの間にかそれを信じるようになった。当時のスペイン代表は道半ばという状況だった。何年も前から優れた選手はいたが、ユーロやW杯のタイトルなんてまだ夢の話だと思っていたよ」

 指揮官に鼓舞された選手たちの“古傷”は痛み続ける。ユーロ2008の決勝前夜、ついドイツとの過去の対戦成績のことを考えてしまう選手たちの心は穏やかではなかった。そう、相手は常勝軍団ドイツなのだ。

「でも監督の言葉で気が楽になったよ」とプジョルは笑う。「試合前日の練習後にミーティングで監督がこうつぶやいたんだ。『ウォレスは準備不足だな。明日の試合で使うわけにはいかない』。僕たちは意味が分からず顔を見合わせた。シャビが僕らを代表して、こう聞いた。『監督、ウォレスって誰ですか?』、『13番だ! キャプテンの!』。ミヒャエル・バラックのことだった。監督は以前から彼のことを勝手にそう呼んでいた。腹を抱えて笑ったよ」

 翌日、指揮官はピッチに向かう通路に集まった22人の選手たちの脇を颯爽と通り抜けると、振り返ってウインクした。そして対戦相手のほうに歩み寄ると、キャプテンマークをつけるバラックの肩をポンとたたき、「グッドラック」と微笑んでピッチに向かったという。

「おもしろすぎるよね」。プジョルはまるで昨日のことのように微笑んだ。「意図的だったかどうかは分からないけど、大笑いをした瞬間に僕らの緊張は消えていた。驚くほどリラックスできたよ。国の威信を懸けて戦う大一番の前夜だというのにね」。スペインはフェルナンド・トーレスがゴールを決め、1-0で勝利を収めた。

 2年後、スペイン代表は南アフリカW杯の準決勝で再びドイツと対戦する。このときはプジョルのリーダーシップがモノを言った。前半をスコアレスのまま終えると、プジョルはドレッシングルームに向かうシャビに駆け寄った。フットボール界の英雄たちが身振り手振りを交えて話す映像が世界中に流れた。

「ベルナベウを覚えてる?」。プジョルが尋ねたのは、1年前のレアル・マドリード戦でシャビのFKにプジョルが合わせた弾丸ヘッドのことだ。この試合でバルセロナは6-2の勝利を収めた。「次のCKで、あれを再現しようぜ」。「そうだな……」。シャビは一瞬間を置いた。「でも相手のDFはでかいぜ?」

 プジョルが切り返す。「でも、動きは石像みたいだと思わないか? あの場所にボールを入れてくれないなら、もうCKでは二度と上がらない」

 73分、その時は訪れた。シャビはリクエストに応え、ペナルティエリアに完璧なクロスを送る。

「プジョルが入ってきた瞬間にゴールを確信した」とはシャビの言葉だ。プジョルはペナルティエリアの外から走り出すと、DFをかわしてマヌエル・ノイアーの頭上を破り、スペインを初のW杯決勝に導いた。

プジョル

決勝へ導くゴールをマーク [写真]=Getty Images

 ここで触れておかなければならないのは、このときプジョルがケガをしていたということだ。彼は試合前夜に療法士ラウール・マルティネスによるヒザの治療を受けてピッチに立ったが、チームメートにも、そしてビセンテ・デル・ボスケ監督にもそのことを話していなかった。

「足を切り落とされていたとしても、彼は普段と変わらなかっただろうね」。そう話すのは、スペイン代表で左サイドバックを務めたジョアン・カプデビラだ。「“ターザン”というニックネームそのものだ。足の具合が悪いなんて夢にも思わなかった。全く普段どおりのプレーをしていた。体に秘めているものが違うんだね。彼ほどの筋肉を持つ選手は見たことがない。もちろん、彼も人間だ。でも、あのゴールは超人的だったよ」

 宿舎に帰った選手たちは、スペインのフットボール史上最も重要なゴールだ、とプジョルを称えた。彼の答えは、「決勝まではね」というものだった。その予想は的中し、決勝の延長終了間際に生まれた一撃に「最も重要なゴール」の座を譲ることになった。決めたのは、プジョルが10年前にマットレスを譲った選手だった。

「それまで苦労を重ねてきたアンドレスが決めたのは、本当にうれしかった」。プジョルはケガに悩まされ続けた後輩を思いやった。「ボールがネットを揺らした瞬間は最高だった。試合終了直前だったから余計にね。でも、そこで気を抜けばやられてしまうことは全員が分かっていた。戦い抜くぞ、とみんなを鼓舞したよ。2年前、ほぼ同じメンバーでスタートを切った。そのチームの集大成となる試合だと感じていたんだ。ヨーロッパではチャンピオンになったが、W杯で優勝するのは簡単なことじゃないからね。感無量だった」

天使の足を持たず、ライオンのハートを持つ

プジョル

2014年にキャリアを閉じたプジョルは、ラ・リーガやUEFAのアンバサダーとして世界各国を飛び回っている [写真]=Getty Images

 執念で押し込んだW杯での一撃の後、英雄の肉体は相次ぐケガに悲鳴を上げた。36回に上るヒザの負傷を経て、彼は引退を決意する。2014年のことだ。もし現役を続けていれば、デル・ボスゲは間違いなくプジョルをブラジルに連れていっただろう。

 プジョルの引退を聞いた世界中の人々から、その功績に対する賛辞が寄せられた。早すぎるという声も多くあった。引退はプジョル自身にとっても、キャリアで最大の難関と言えるものだった。

「フットボールが生き甲斐だったからね」。プジョルは今も諦められない、という様子で語った。「毎日練習に行ってチームメートとドレッシングルームで軽口をたたく。そんな生活に別れを告げるのは簡単じゃなかった。でも、自由になる時間が多い生活にも慣れるもんだね(笑)。家族と一緒にいられる時間が増えたのが一番の収穫だ。バネッサとの間に娘のマヌエラが生まれたばかりで、絶好のタイミングだった」

 その後の彼は、テニスとスカッシュを合わせたパデルで体力を維持し、自らフットボール・エージェントも立ち上げた。現在は世界の最貧国や辺境の地にフットボールが持つ影響力を広めるための活動をしている。インドのダラムシャーラにも飛び、チベットの自治についてダライ・ラマと会話を交わしたこともある。

「知らない土地に行って、世界中の人々と話をするのが好きなんだ。アンバサダーとしての仕事は本当に楽しいよ」と、CLのトロフィーツアーのプロモーションでナイジェリアを訪れたプジョルは言う。

「フットボールの力を感じるよ。ダラムシャーラで僕のユニフォームを着た子供に会ったとき、このスポーツに打ち込んで本当に良かったと感じたね」

 彼がチベットの状況に心を寄せるのには理由がある。生まれ故郷カタルーニャの独立と重なるからだ。2017年の住民投票で、彼は独立賛成の意を表明した。

 ラ・ポブラ・デ・セグールの市長ルイス・バレーラは、地元が生んだ最大のヒーローであるプジョルについて、「この地域の特徴を代表する男だ」と話す。

「ここでの生活は都市部と同じではない。日々の暮らしは厳しく、いろいろな問題もある。彼は今、地元が最も必要としている人間だ。明晰な頭脳を持った、たくましく勇敢な男だからね。二度と現れないかもしれないヒーローだよ」

 ダラムシャーラと同じように、ラ・ポブラの街には背番号5のユニフォームがあふれている。「こんなことになるなんて、想像もしていなかった」とプジョルは言う。「でも、今はすべてを信じられる。だって、実際に起きていることだからね」。彼は20年のキャリアを振り返るかのように、一瞬間を置いて続けた。

「自分のキャリアを誇りに思う。タイトルを取ったことだけが理由じゃない。小さい頃から愛してやまなかったチームでプレーすることができた。それは世界中の子供たちが抱く夢だと思うんだ」

 プジョルはバルセロナの伝説的存在ミゲル・ベルナルドに憧れて育った。センターバックを務める彼はかつてクラブの最多出場記録を持っていた選手で、そのニックネーム“ターザン”をプジョルは受け継ぐことになった。フィジカル、屈強な精神、そしてDFとしての知性が融合したミゲルは、すべてのバルセロナファンにとって忘れることのできない存在だ。

「彼のニックネームを受け継ぐことができて感無量だ」とプジョルは言う。「ミゲルはバルセロナの象徴だ。現役時代に彼のサポートを受け、ニックネームまで継承できたことは最高の名誉だよ」

 スペインの日刊紙『ムンド・デポルティーボ』は、2014年にこう書いた。「プジョルは決して忘れてはならない教訓を教えてくれた。『バルセロナで最高のDFになるために必要なのは、天使の足ではない。ライオンのハートだ』」

 ラ・ポブラの練習場で顔から突っ込んでいた彼は、幼少期からその鋼のメンタリティを持っていたらしい。スーパーマンのコスチュームを買ってくれない母親に腹を立て、バルコニーから身を投げたという都市伝説もあるほどだ。

 2002年、友人のペレスは亡くなる前に『エル・パイス』紙のインタビューで次のように話している。

「スーパーマンの話は知らないけど、バルコニーから飛んだのは本当だ。でも、かすり傷一つなかったそうだ。やっぱり、彼は鉄人だね」

※この記事はサッカーキング No.005(2019年8月号)に掲載された記事を再編集したものです。

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